忘れん坊の外部記憶域

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気候正義(Climate Justice)という翻訳の危険性

 気候正義(Climate Justice)とは、現在の気候変動は先進国の責任であり、途上国に対して公平性を持つためには先進国が率先して気候対策を行わなければいけない、という考えです。気候の公平性とも訳されています。

環境用語集:「気候正義」|EICネット

 気候変動に対して先進国に責任があるのはその通りですので、この考え方自体には特に異論はありません。

正義?公平性? 

 ただ1点、気候正義という翻訳だけは不適切だと考えます。気候の公平性のほうが良いでしょう。 

 元々の英語であるClimate Justiceの"Justice"は直訳すると「正義」です。しかし正義(Justice)の捉え方は東洋と西洋で異なるため、このJusticeを正義と訳してしまうと意味合いが若干変わってしまいます。

 西洋におけるJusticeは形容詞のjustから分かるように、ぴったりとちょうどいい状態にすることを意味します。つまり何らかの不利益を得ている人がその補填を受けたり損失を与えた人が賠償したりと不公平を正す行いがjusticeであり、対義語はInjustice(不公平)です。

 それに対して東洋における正義は道徳的な正しさを指します。悪い行い、正しくない行いである悪行・不義に対する概念としての正しい義という意味です。正義は公平性も内包した概念ではありますが、他にも人間の欲望である「利」とも対立する意味を持っています。

  Climate Justiceは前述したように、気候変動の原因となった先進国と被害を受ける途上国で公平に責任を分担するべきという考え方であり、善悪ではなく公平性についての概念です。これを「正義」と訳してしまうと、東洋的価値観を持つ日本人からすれば善悪に関する概念と誤解してしまいます。先進国は悪であるという勘違いが生まれる余地を無くすためにも、正しく「公平性」と訳したほうが良いでしょう。

正義よりも科学の話をしよう 

 別に善悪の話でもいいじゃないかと思う人がいるかもしれません。

 しかし過去の記事でも少し書いていますが、善たる正義は暴走する危険があります。

 正義はどうしても党派性を持ちやすい概念です。例えば、現在最もCO2を排出している国は中国です。これは国際的な視点で見ると悪い行いかもしれませんが、中国の国民からすれば自国の生活レベルを向上させることは正しい行いであり彼らにとっての正義です。正義というものが視座によって変わるものである以上、党派性を回避することはできません。

 よってアメリカのように気候変動が党派性の問題とならないよう、正義という概念を用いるのは辞めるべきです。脅威論と懐疑論で分かれて争うなという意味ではなく、善悪を基準として論争しても決着がつかないため科学的・政治的な議論に終始しましょうという意味です。物事を善悪で分けるのはとても簡単ですが、それは知性の放棄と言えるでしょう。